四日市別院のおこり
戦国時代末期の1578年(天正5年)ごろ、宇佐四日市の国人領主:渡邉氏の当主であった渡邉加賀守統述(むねのぶ)は、弟 渡邉左馬頭統政(むねまさ)に家督を譲り、自らは法名:専誉を名乗って入道し、山本村の虚空蔵寺跡に庵を開いた。
やがて大友宗麟の寺社弾圧により庵は焼き討ちの憂き目に遭い、専誉は弟子の良珍とともに木仏を背負って戦火を逃れ、湯布院や国東地方の田染などを流浪した。豊臣秀吉の天下平定がこの地におよび、渡邉氏が黒田長政との戦の末に所領を明け渡した1600年ごろ、ようやく四日市常徳の地に帰還し、「真勝寺道場」を建立した。
常徳帰還から時を置かず専誉は死去し、内室が真勝寺道場を守ったが、専誉の弟で渡邉氏当主の渡邉左馬頭の嫡子:正願(しょうがん)が養子として跡を継ぎ、三代目住持となった。正願は1623年(元和9年)、本山より寺号と、親鸞聖人御影を申し受け、正式に「實相山真勝寺」が成立した。また1630年頃、真勝寺を当時の四日市市街中心部にあった中屋敷と呼ばれる建物に移転した。現在の四日市別院の場所である。
正願以来歴代の住持は転用された既存の屋敷を寺として使用し、本堂の建立は悲願であったが、1674年(延宝2年)5代目住持 丹山(たんざん)により完成をみている。
真勝寺(別院)騒動
真勝寺本堂落成から約70年が経った1737年(元文2年)ごろ、十代目住持 宗順(そうじゅん)らの不行跡に端を発する真勝寺(別院)騒動が起こった。
宗順らの不行跡への批判や運営再建問題であった騒動は、寺中、末寺、檀家を二分する内紛の様相を呈した。翌1738年(元文3年)には本山より宗順に隠居が申し付けられ、真勝寺を抱寺に引き上げ、末寺三カ寺の輪番持ちとする裁定が下った。
真勝寺を追われた宗順の行状は一向に改まらないままであったというが、1743年(寛保3年)に至り真宗大谷派(東派)から本願寺派(西派)への改派を企てた。同3月2日、市内森山の教覚寺恵明をはじめとする僧侶は大挙して真勝寺に押し入り、寺内で乱闘となった。輪番は理不尽にも打擲され、半死半生の体で門外に押し出された。
西派は真勝寺を占拠し、真勝寺および宗順と末寺十一寺が転派したものとした。東派はこれに対し同閏4月、幕府に事態を訴え出た。
真勝寺(別院)騒動は、寺社奉行 大岡越前守忠相(ただすけ)の裁断により幕を閉じた。寺跡・敷地・山林などが公儀に没収され、宗順、恵明が八丈島へ流罪となるほか、関係者が入牢ののち獄死している。
真勝寺は公儀召し上げののち東派に下げ渡され、1744年(寛保4年)「四日市御坊真勝寺」となった。西派は1760年代に市内高森に所在した正明寺を移転させるという名目で現在の西別院を発足している。
九州御坊・本願寺別院としての始まり
1744年(延享元年)幕府に召し上げられていた真勝寺寺跡は東本願寺へ御下付となり、「本山掛所御坊(ほんざんかけしょごぼう)」となった。これが「九州御坊(きゅうしゅうごぼう)」と称し、全九州の716ヵ寺を統括した「別院」としての始まりである。
1753年(宝暦3年)真宗大谷派 従如宗主より九州御坊に相応しい伽藍の造営を催促する御書が出されたが、同時期に本山の伽藍整備が行われていたことから、九州全体から懇志を集めることは困難であった。1803年(享和3年)あらためて達如宗主の御書が出され、1825年(文政9年)に本堂が成就し、伽藍が整備された。この本堂は九州御坊という位置づけに見合うものとして重層の大規模なものであった。
その後、「御坊」は明治になると「管刹(かんさつ)」と改称。1876年(明治9年)に真宗4派(東西本願寺・専修寺・錦織寺)共通の「宗規綱領」が発布されてから「別院」と改称された。